奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
ジル・ボルト テイラー
新潮社
2012-03-28

こんにちは。


意外と体と心って、よくリンクしていると思うことが多い。その体型であれば、心の発達はこの程度だろうと思えばそうであり、この食欲でこの性質だったら、この体型はありだろうなど、色々な意味で、人間とは良くできているものである。

その中で、最近、うちの兄と話をしてて思うのだが、長命遺伝子の存在について、考えることがある。

ついこの間、ある長命の人に長命の秘訣は何ですか?と聞いたら、ケンタッキーを毎日食べることであると答えた人がいたそうだ。無論だが、揚げた鶏 は、コレステロールが高く、脂分が多いので、相対的にカロリーも高い。その長命な人は、「たまたま」そのカロリーの高いものを一日に必ず一回食べても、平 気だった「内臓」や「消化器官」や、それを消費するだけの「運動量」を支える「体力」「筋力」などに恵まれていたに過ぎない。

つまり、すべては「たまたま」なんである。

 

わたしは、心臓病であり、どうも幼い頃から心臓病の気配があったらしい。しかし、その頃はそれを調べようもないし、わたしも不思議に思ってきて自分で調べてみて、初めて、高校生から感じていたあの違和感は、既に心臓病の兆候であったのだと実感するようになる。ただ、わたしが、無茶をやっても死なな かった理由のひとつとしては、これも、「たまたま」わたしは、腎臓がひどく丈夫で、これによって救われてきているのだ。

となると、割と「たまたま」の要素が多い人も多いと思う。うちの兄は、心臓病で狭心症が中々治らない上に、ものすごく肥満体質である。しかし、彼 が、心臓病であって、糖尿病を発症しないのは、たまたまである。兄は美食家であり、この人がいつ糖尿病になってもおかしくないと回りは誰もが思っている。 だけれど、どういうことか、彼は、心臓病だけで済んでいる。

父が癌だったのは、たまたまなのかどうかは、実は分からない。母は、常に放射線のサークルの中で寝食を忘れて実験している父が心配だったと言う。そ の父が、あっという間に胃潰瘍から、胃がんになり、あちこちに転移しているとき、母は、放射能を疑って、これから父を遠ざけるほうにばかり頭がいったとい う。けれど、父が存命のうちに聞いてみたのだが、父は、自分の癌は、自分が我慢しても我慢しても我慢しきれないほど強いストレスが引き金になったものだと 思っていた。わたしは、父を焼き場に連れて行ったとき、父の同僚と話しをしたのだが、その同僚は、同じ職場環境でもケロッとしていた。

人間、色々あるもので、主人の祖父は大変長生きをした。これも、後半はよく自重して、朝早起きして、夜は早く寝るという習慣がついていたせいかもし れないし、そもそも、「たまたま」かもしれない。怒りっぽくて稚拙な舅に比べると、割と自己コントロールの点では、優秀な人であった。だけれど、この人 も、遠慮がなくて、用意されたものの中で、自分の取り分はどれだけということを、計算することが出来ず、満足するまで食べる。なので、食わせてやらなくてはならない孫への気遣いが出来ない点 では、ストレスフリーであったので、相対的に他の自己コントロールが上手だったのかもしれない。

舅は、ストレスに滅茶苦茶弱い人であり、強くなろうと思う面があるが、個人経営をしていた面もあり、我慢が本当に出来ない。この点は、糖尿病が引き金となる性質の因子としてよく引き出されるが、成人病にとらわれる人は、本当に我慢が出来ない。そもそも、抜群の忍耐力を誇っているわけでもなく、ただ、我慢が出来ないのである。どこかで我慢してくると、どこかで、強く憂さを晴らしたいと考えるものである。

画して、わたしの大叔母も糖尿病だったが、大叔母は、足を壊死で失っても、美食をやめなかった。うちの母は笑う。舅の足はまだついているのか。ついて いるなら、まだ我慢している状態だと。聞いてて、空恐ろしいものがあると思う。足を捨ててでも、食べずにいられなかった大叔母である。

ところで、過食拒食には、「精神的飢餓感」が有り余りすぎると、これを引き金として引いてしまう。

幼い頃に満たされた思いがなければ、そして今、満たされた思いがなければ、誰でも過食拒食になるであろうと思う。だけれど、その状態に負けたら、病 気が体に負けた証拠として出てしまうのである。「過食拒食は、眼光の鋭さで大体判別がつく」。普通の生活を送っている人で、そこまで眼光が強くなる人は居な い。つまり、死に際瀬戸際を歩いているからこそ、眼光が鋭くなるのだ。過食拒食に入ったら、自分は自分に負けていると思え。

「精神的飢餓感」は、正直に言えば何で埋めたらいいのか、具体的な策は見当たらない。強烈な過食や拒食を繰り返しても、何をしても満たされない思いが強くて、自己卑下感が強い人が多い。だけれど、満たされることを探しに行かなくては、結局はどうにもならない。そして、安易に「精神的飢餓感」を、行きずりの人とのセックスで埋めようとして、さらに傷ついている人を沢山見てきた。あれは、そもそも、男が得をする話であって、自己懲罰的に行っている人の、心の薬にはならない。

ついでに言えば、「精神的飢餓感」を感じている人こそ、霊感がどうのと言い出す人が凄く多い。つまり、満たされていなくて、自分が常に会話の中心に入り たい。それは、分かったとしよう。だけれど、常に会話の中心でいられるような人間であり続けるには、努力が必要なのだ。ヒステリーや恐怖で人は支配できな い。あまりに、ヒステリーが過ぎて、距離を置かれてしまったうちの姑などいい例である。常に、努力が必要であり、いつでも自分が場の中心であるには、若い 頃は、「たまたま」生まれ持った容姿がものを言うのかもしれない。

だけれど、年をとれば、皮をかぶったBBAである。その皮が、伸びたか、たるんだかで、ひどく真剣になるBBAである。

そこまで、達観した上で、そうです、BBAなんです。伸びているか、たるんでいるかは、大違いなんですと言い切れる女がいれば、それはそれで、「た またま」向上心があって、上昇したいBBAなのだと言える。伸びた皮は切ればいい。たるんだ皮は、一生懸命さすって、元に戻せばいい。表現の違いだけでは なく、ケアの違いに色々ある。そこまで出来てこそ、美魔女であり、そこまでいかず、「うーん、でも・・・でも・・・」って言っているのは、正直、微妙な魔 女であり、その心がBBAになるのだ。

さて、そんなたまたまで、わたしたちは生きている。たまたまあなたの環境は最悪で、あなたは精神を病んでしまった。だけれど、そこから這い上がるのは、「たまたま」も含めた自助努力である。たまたまが、訪れた瞬間に、掴んで離さなければOKである。

きっかけは、「たまたま」の象徴であり、そもそも、みんなが同じきっかけで盛り上がるとか、それがいいと言えることは何もない。それこそ、たまたま、そうしたら良かっただけで、他の人には通用しないと思うほうがいいと思う。

ちなみに、うちは、たまたま、「ブルーのカーペット」をリビングで愛用している。

たまたまである。わたしが元々コバルトブルーが好きなので、たまたまである。それによって、家中が集中力が増しているとは思えないし、勉強できる子 の育つ部屋という特集を見ても、なんとなく今一ぴんと来ない。つまり、それは、その家族にとってたまたま良かった組み合わせである。例えば、オレンジを用 いて、子供部屋をアレンジしたとしよう。恐らくうちの子供だと、その部屋には入り浸らないであろうと考えられる。

なぜかと言うと、そもそも、抜群にエネルギッシュなやつの部屋に明るい色などを取り揃えても意味がないのだ。風水的に意味する「色」や、無意識にあなたが選ぶ服の色は、性質に足りないものを補強する意 味合いがある。

反対に、リラックスしすぎて、副交感神経が緩みすぎて、疲れまくっている人の部屋に、グリーンなんてどうでもいいのだ。こういう人には、多 少赤いクッションでもスパイスでおいてやらないと、駄目なのである。

つまり、どの人もどの家族も、どの子供も、画一化された商品ではなく、わたしたちは、全く同じつくりをした生き物ではない。

人によっては、肝臓が強い人もあるだろうし、人によっては、腎臓が弱い人がいるだろう。腎臓が弱い人が、過食嘔吐なんか繰り返したら、もってのほかである。自殺行為だ。だからこそ、人間に出来る範囲は、個々に定まっていて、それが、たまたまなのである。

辛い環境や、強いストレスに負けそうなとき、何かで消化したいと考える。

だけれど、死にそうになりながら消化したって意味がない、人間はこんな画一化されていない生き物の寄席集まりで、中身の作りによってひどく性格を変 えてしまう。そんなものたちが集まって話をすれば、ややこしくなることだってあるし、誰もが、人格者からは程遠くなる。けれど、この万物の生きているもの たちの最終目標は、幸せの花を咲かせることである。

人間は、死ぬときにこそ、すべての価値が出るものである。

惜しまれて亡くなるのもひとつ、憎まれてなくなるのもひとつ、骨になっても、恨まれるのもひとつ。それも、すべて、生きた証拠である。

 

だから、たまたまであった境遇で、そんなに嘆きなさんな。そこから、幸せを掴むのは、すべて、お前さんの努力と、「たまたま」なんだよ。

 

 

その幸運は偶然ではないんです!
J.D.クランボルツ
ダイヤモンド社
2005-11-18

偶然の科学
ダンカン ワッツ
早川書房
2014-04-01