こんにちは。

 

このシリーズは、一番初めに、「先祖供養は自分の立身出世について影響があるのか」という問いから始まりました。

わたしの考える先祖供養も含めての答えは、「あなたが決して折れない心を保てるのであれば、行う全てが効果がある」ということです。

あなたは、折れやすい。心が折れやすい。折れない為に、あなたはできる範囲で、それを繰り広げようとする。でも、本当に信じ切れますか。先祖供養や 神に拝んで本当に信じ切れますか。何かあって、本当にドンドン不幸になった時もなお、あなたは、それでもそのありがたみを信じ続ける事ができますか。

戦争に行く人たちの例も挙げましたが、戦争は本当の修羅場なので、心を強くさせる為に、あえて宗教をお勧めする国もあります。

つまり、あなたが、現時点の状態に対して心折れやすくなっている時は、何か心を折れない、信じきれるものが必要なのだと思います。それは、他人に寄 るものという選択が一番怖いですね。他人の優しさは、時として、うつろいやすいからです。振り回されて、感情をかき乱されれば、職場でもあなたの姿勢は、 どんどん評価が下がっていきます。

だからこそ、あえて、見えない何かを信じることの方が、遥かに無難でいいのだと思います。先祖供養で、あなたが本当に救われるのであれば、やればいいと思います。でも、やってもやっても、結局は、見えない何かを取り祓う事はできないのです。

むしろ、その先祖供養に費やしたお金を、別方面に費やしていたなら、後日のあなたは少し楽だったかもしれません。妄想に取りつかれ、妄執に取り憑かれ、自身の過剰な「想い」を叶える為に、あなたは、全く無駄な方面にお金を費やしたのですよね。

では、先祖供養ってそこまでお金を出してすることなのでしょうか。

どこまでが限界で、どこまでやればいいのでしょうか。

 

それが一番疑問点だと思うのですが、あなたがやればやるほど効果が出たと思い込んで、先祖供養と現実面の「関係性のないモノゴト」を結び付けて、妄 想して行く時に、恐らく、先祖供養をした時、あなたは、少し余裕が出たのだと思います。その姿勢で、周囲と当たるので、周囲は、あなたの攻撃的な面を見た り、被害妄想的な面を見たりしていますが、「穏やか」なあなたを見て、多少なりとて関係が修復されます。

でも、ほんの少しで終わってしまいます。

なにせ、先祖供養は、「禊」ではありません。

あなたが、今まで犯した、色々な不作法についての「謝罪」には値しないんですよ。

 

あなたは、周りが自分を見る目が変わってきたと考えている。あなたが招いたことで、あなたの性質が、その場に対して不調法だったからこそ、そう言う 事が起きたのでしょうか。また、営業成績が下がってくるのは、少なからずもあなたが招く原因が少しでもなかったでしょうか。あなたは、心から、自分に罪は ないと言い切れますか。あなたの周りへの態度は、少しでも、ぶれませんでしたか?感情に任せた時もありませんでしたか。あなたが気が付かない怠慢な態度 や、驕った態度が、招く事実もありますよね。

 

これらのあなたが思いもかけず起こしたことの、禊を、先祖供養で何とかしたい、神でなんとかしたい、そう考えても、うまく行くわけがないじゃないですか。

 

あなたの行動と、先祖供養には、全く関係性がないのですから。あなたが、既存宗教の大きな考えに触れて、自分の頑なな先入観を少しずつ解いていくな らわかりますけれどね、そうではなく、ただひたすら、己の欲の為に、先祖供養を行って、何の関係がこの「欲」と「先祖供養」にあるものですか。

あなたが、「親」を犠牲にしてまで、生き延びようとし、親がそれに応えて、自分を犠牲にして子供の先行きを願った。そして、その後、子供は成長し、 大きな社会的地位を得て、初めて、墓を建てなおすという話はよくありますが、そんな家の中で、感謝の気持ちの裏にどす黒い「欲求」を抱えた先祖供養に何の 価値がありますか。

あなたの既成概念は変わらず、ありがとうございますと言う言葉は、「あ」でも入れれば予測変換されるのでしょうか。感謝の意味なんて分からないで使 う感謝と同じなのですよ。本当に、ありがたみが身に浸みて知る時は、あなたが自分の心を入れ替えた時ですよ。でも、人間の性質はそんなに簡単に変わらない ので、ちょっと難しいですよね。

あなたが、犯した罪は、あなたが自分で償うしかないんですよ。職場で無視されるようになってしまったのは、経緯を深く掘り下げれば、あなたにも原因 があったはずです。あなたの価値観を押し通したことで、恐らく軋轢ができているのだと思います。上手に他人との価値観のすり合わせができなかったのでしょ う。

それを、先祖供養とか、神とか、そんなんで、チャラにできると思っていたら、それこそ、関係妄想ですよ。

宗教は、己の罪を認め、己を見つめなおすためにあるのであって、己の欲を満たすためにやるのは、「坊主と神主」だけでしょう。

 

わたしは、少なくともこれらに関係性を認めませんし、関係性があったとして、何かいいことがあったとしても、恐らく、わたしが意図する時にそれが使 えるとは思っていませんよ。意図する時に、徳を積んだから使えるものがあったとしたら、皆恐らく、2000年以上昔から、徳を積もうとする性質に変わって いると思いますね。

少なくとも、2000年以上前から、金は、己の欲求を満たす時に自由に使えるものでしたからこそ、徳を積まずに金を積もうという、拝金教という考え があるのだと思います。しかし、あなたは、がちがちの固定概念のまま、他人とぶつかり合い、そして他人に知らずに印象を悪くし、そしてそれを、「手っ取り 早く禊したい」と思う。

 

これ、その考えのあなた自体が、既に間違っているのだと思いませんか。

心が強くなるどころか、鈍感そのものですわ。

 

続く

 

(ヤバいところって、一番のホラーは、治安の危ない地区に限ります。予測不可能な行動を取る人たちに紛れると、自分の価値観まで歪んできます)