こんばんは。

 

よく、悪霊が憑いたと言われるケースで、ひとつ考えられる線は、「解離性人格障害」における「交代人格」である。

あまりに、今の自分には受け入れられるキャパを越えた心の傷を負った時、人は、知らずにその自分を守るような人格を生み出すことがある。こういう人格は、当人の「受け身」な性質とは違い、大変「攻撃的」なので、一瞬、感じとして「悪霊」が憑いたと思い込むケースが多い。

実際は、当人の生活環境を尋ねてみると、かなり心的外傷を背負っていることが多く、知らずに生み出さている。なので、若い子は、若い子なりに受け止 める土壌がないまま、性的被害に遭ったり、ネグレクトに遭うケースが多いので、知らず知らず、このような形が出て、それを周囲は、「悪霊」とはやし立て て、自分達に立ち向かう人格を、必死で潰そうとする。

さて、そんなケースもありながら、割と子供の頃に、イマジナリーフレンドを持っていた人はいるのではないだろうか。

イマジナリーフレンドとは、「見えない友達」である。空想力、想像力が豊かな子が多いが、基本的に、彼らは悪いことを言う事もあるが、助言者であり、救護者であり、友達であり、屈託なく、何でも相談できる相手だったりする。

そのイマジナリーフレンドを持つにあたって、何故持ったかを探っていくと、当人の心には、意外と心的外傷がある事に気が付く。

 

スピリチュアルでは、意外と、守護霊やイマジナリーフレンドを見る人、それと共に歩みたがる人を、喜んでそそのかす面があるが、わたしは、基本的に、イマジナリーフレンドが出てきた際には、自身が、SOSを出している状態であると考える時がある。

 

わたしにとって、イマジナリーフレンドというより、救護者は、夢に出てくる「ある男」になる。その男は、実生活はクズでどうしようもないが、とても わたしが心理的に窮地に立たされた時には、甘い言葉をささやいて、自分がいるから何も恐れなくていいと言う。そして、わたしは、そのイマジナリーフレンド と過ごしたくて、10代の頃、寝ている時間が凄く長かった。

ただ、わたしは、現実の男と、イマジナリーフレンドを勘違いしたおかげで、現実の男は大変クズであることを知った。そのギャップに失望し、殺されよ うとしても掻い潜ってきた自分は、自殺を図ろうとする。最近、イマジナリーフレンドである、「夢の中の男」が出てくることがある時は、自分は肉体面、精神 面で辛いのだなと思うようにしている。決して、現実のその男は、違うのである。

 

そんな中で、イマジナリーフレンドではなく、勘弁してくれと思うモノがある。我が家にたむろする沢山のなんか変な奴である。実はブラインドテスト で、全然関係ない集団からピックアップした人間を、何名か呼んで、この勘弁してくれを見てもらったことがある。勿論、ひとりはspiritualの人で、 数名は、全然関係ない人だった。

彼らは、同じようにそれが見えると言い、同じような絵をわたしの前に描いて見せた。

それで、わたしは、自分の家を徘徊しているこの方が、わたしの「イマジナリーフレンド」ではなく、他人の目に見ても見えるものであるという事に深く 驚きを感じた。実は、わたしは、聖母マリアの像を、「深夜の理性のない時間帯に衝動買い」したのである。これは、ある人の家に伺った時、ある奇妙な体験を したので、同様の事が起きるかと思って試してみたことなのである。

ある人の家には、玄関にバリの女神像が置かれていた。

一見は、普通の像なのだが、この像は、よく置いてある場所から動いてきて、歩きまわっている。ついでに言えば、わたしが、そのお宅に伺って、うとう とすると、その女神は、姿を現し、「あーだの、こーだの、口やかましく言う。」。あまりに、面白い現象だったので、その家の人間に尋ねてみると、こんな話 を聞く事ができた。

「玄関に女神像が欲しいと思って購入したら、家族から、家じゅうを歩き回る女がいる」という話を言われた。しかし、職業柄、自分以外であれば、自分 の客である。しかし、出歩く時間は、家族が帰ってくる夜である。なので、恨みを持たれた生霊かとも思ったが、正体を見たいと思った家族が、その女の後ろを ついて行ったところ、像のところで、すっと消えてしまった。しかも、像と同じ服を着ていた。

自分の家を訪ねる人は、必ず、この像に家のどこかで出会うと言う。」

 

これを聞いて、面白いと思わぬわけはない。画して、わたしもバリの女神を探したが、あいにく縁がないようで買う事ができず、恐ろしいことに、聖母マ リアで手を打っちゃったという訳である。まぁ、聖母は元々、そういう噂が絶えぬ人なので、基本路線はOKであったが、わたしの家で歩き回っていたのは、天 使はいるわ、象はいるわ、聖母マリアは歩くは、そうこうしている間に、生霊も怨霊もあわせて「多国籍の存在するごっちゃな空間」と化してしまった。

これは、たまたまの話である。

ところで、わたしはだからと言って、これら歩くモノをイマジナリーフレンドにし、自分の助言者であり、救護者であり、友人であり・・・・という事は 求めることはない。歩きたい人は勝手に歩けばいいのである。わたしが、共に歩む必要などない。歩む必要があるのは、わたしの緊急時に出てくる、恐らく、わ たしの理想の異性像にして救護者である「イマジナリーフレンドである、男」で十分である。

さて、わたしは、イマジナリーフレンドと夢の中で熱いひとときがある訳ではなく、ただ、普通に暮らしている。そのフレンドにあるものは、「尊敬と憧 れ」だけである。それで終わりである。そのフレンドがささやく言葉は、きっとわたしが生涯かけても、どの男からも貰えない「甘いセリフ」である。このイマ ジナリーフレンドは、「強い女」だと思われてきたわたしが、心的外傷を得て、PTSDからDID(解離性人格障害)になりそうな自分を救済する「真に求め ていた言葉」を言うアイテムであっただけだ。

ちなみに、わたしの生活では、主人は、到底救護者になれそうもなく、恐らく当人もその気がないであろうと思う。息子に救護者を求めるような、そんな 馬鹿げた母親ではないので、わたしにとって、イマジナリーフレンドは、ある意味、精神の脆弱性から崩れ落ちそうな時に、心を強化するレジリエンスのひとつ である。

レジリエンスを持っておくと脆弱性をカバーできるため、常にわたしは、ユーモアというレジリエンスと共に携帯してある。守護霊と呼ばれたがるイマジナリーフレンドには、そんな役目がある。

 

さて、解離性人格障害の中では、時として、「Internal Self -Helper」と呼ばれる存在がある。ゴチャゴチャして、自分のエゴだけ通そうとする自己中たちの集まりの「交代人格」の中で、半ば神的な「人徳を備 え、まれにみる正義と倫理で、交代人格を整理してくれる守護的なスタンスの人格」がいる。しかし、この人格は、既に、そもそも、頼りなく、この人格だけで あれば、うまく行くわけではない。

常に、このISHは、自身を整理する為のツールであり、神とはそんなものである。なので、時々、交代人格が、ISHのような発言をして、似非を気取 るが、それに迷わされてはいけない。神は、人の中にいて、だけれど、人を支配せず。人の中が乱れて、混沌とした時に現れる最終システムのようなものであ る。

この最終的なファイナルアンサーをどこで使うかというのは、一番迷いやすいところであるが、カードゲームであれば、誰もが簡単に考えるだろう。そう だ、ワイルドカードは、最後まで取っておくものだ。最後の最後の切り札として、使用してこそ意味がある。始めから、ワイルドカード乱発では、効き目は薄 い。

 

という事で、津々と述べてきたが、あなたの守護霊は、あなたのイマジナリーフレンドではないのか。あなたは、それを人に見てもらって、人にしか見え ないイマジナリーフレンドを、自分の中で、妄想として作り上げるのだろう。だけれど、そのイマジナリーフレンドは、あなたが辛すぎるから、あなたの前に現 れた、「あなた用にカスタマイズされた、あなたの言ってほしい言葉を囁くアイテム」である。イマジナリーフレンドだけと暮らして行ける環境は、この世には ない。

だからこそ、守護霊や、何やで、あれこれ思い悩む人がいるとは思うが、人から「決められた」イマジナリーフレンドで遊ぶ前に、そもそも、家の中を見て見た方がいい。意外と、多国籍空間は、うちだけの登録商標ではないことに気が付くはずだ。

 

多国籍空間に、霊がいたら、あなたが、楽しい事、嬉しい事、悲しい事、辛い事を経験すると共に成長し、言葉を交わさずとも離れていくだろう。それより、死神だったら、優しく、

 

「どっかの誰かに押し付ける」か、「排泄物として水洗トイレに流す」か、「何かに擦り付けて、萌えるゴミに出してしまえ。」

 

あまり、自分以外の何かに囚われてはいけない。神は、あなたの中にいると思えばいい。

 

傷ついた心的外傷を、無理に癒せない時は、一生癒す必要もない。神がいるのか分からなくなっても、見失うな。神が目の前に現れない時は、あなたが、 まだ最終的に、ダメージを受けたわけではないのだ。傷ついた自分を救うために、更に人を傷つければ、もっと神を見失うだろう。また、金勘定や何かの為に、 人を粗末にして歩けば、もっと神から遠ざかろう。ひとを粗末にできる人に、自分を大切にできるわけがない。落ちぶれて、孤独になった時、自分を大切にして くれと叫ぶのが落ちである。

しかし、神に近くなればなるほど、人は息もつけない程、深く傷つくという事実は、大変理不尽な話である。