「北極星を目指して」 (左脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

カテゴリ:朋塾〜魂の筋力を鍛える精神哲学〜 > 奇跡の仕組みシリーズ

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
ジル・ボルト テイラー
新潮社
2012-03-28

こんにちは。


意外と体と心って、よくリンクしていると思うことが多い。その体型であれば、心の発達はこの程度だろうと思えばそうであり、この食欲でこの性質だったら、この体型はありだろうなど、色々な意味で、人間とは良くできているものである。

その中で、最近、うちの兄と話をしてて思うのだが、長命遺伝子の存在について、考えることがある。

ついこの間、ある長命の人に長命の秘訣は何ですか?と聞いたら、ケンタッキーを毎日食べることであると答えた人がいたそうだ。無論だが、揚げた鶏 は、コレステロールが高く、脂分が多いので、相対的にカロリーも高い。その長命な人は、「たまたま」そのカロリーの高いものを一日に必ず一回食べても、平 気だった「内臓」や「消化器官」や、それを消費するだけの「運動量」を支える「体力」「筋力」などに恵まれていたに過ぎない。

つまり、すべては「たまたま」なんである。

 

わたしは、心臓病であり、どうも幼い頃から心臓病の気配があったらしい。しかし、その頃はそれを調べようもないし、わたしも不思議に思ってきて自分で調べてみて、初めて、高校生から感じていたあの違和感は、既に心臓病の兆候であったのだと実感するようになる。ただ、わたしが、無茶をやっても死なな かった理由のひとつとしては、これも、「たまたま」わたしは、腎臓がひどく丈夫で、これによって救われてきているのだ。

となると、割と「たまたま」の要素が多い人も多いと思う。うちの兄は、心臓病で狭心症が中々治らない上に、ものすごく肥満体質である。しかし、彼 が、心臓病であって、糖尿病を発症しないのは、たまたまである。兄は美食家であり、この人がいつ糖尿病になってもおかしくないと回りは誰もが思っている。 だけれど、どういうことか、彼は、心臓病だけで済んでいる。

父が癌だったのは、たまたまなのかどうかは、実は分からない。母は、常に放射線のサークルの中で寝食を忘れて実験している父が心配だったと言う。そ の父が、あっという間に胃潰瘍から、胃がんになり、あちこちに転移しているとき、母は、放射能を疑って、これから父を遠ざけるほうにばかり頭がいったとい う。けれど、父が存命のうちに聞いてみたのだが、父は、自分の癌は、自分が我慢しても我慢しても我慢しきれないほど強いストレスが引き金になったものだと 思っていた。わたしは、父を焼き場に連れて行ったとき、父の同僚と話しをしたのだが、その同僚は、同じ職場環境でもケロッとしていた。

人間、色々あるもので、主人の祖父は大変長生きをした。これも、後半はよく自重して、朝早起きして、夜は早く寝るという習慣がついていたせいかもし れないし、そもそも、「たまたま」かもしれない。怒りっぽくて稚拙な舅に比べると、割と自己コントロールの点では、優秀な人であった。だけれど、この人 も、遠慮がなくて、用意されたものの中で、自分の取り分はどれだけということを、計算することが出来ず、満足するまで食べる。なので、食わせてやらなくてはならない孫への気遣いが出来ない点 では、ストレスフリーであったので、相対的に他の自己コントロールが上手だったのかもしれない。

舅は、ストレスに滅茶苦茶弱い人であり、強くなろうと思う面があるが、個人経営をしていた面もあり、我慢が本当に出来ない。この点は、糖尿病が引き金となる性質の因子としてよく引き出されるが、成人病にとらわれる人は、本当に我慢が出来ない。そもそも、抜群の忍耐力を誇っているわけでもなく、ただ、我慢が出来ないのである。どこかで我慢してくると、どこかで、強く憂さを晴らしたいと考えるものである。

画して、わたしの大叔母も糖尿病だったが、大叔母は、足を壊死で失っても、美食をやめなかった。うちの母は笑う。舅の足はまだついているのか。ついて いるなら、まだ我慢している状態だと。聞いてて、空恐ろしいものがあると思う。足を捨ててでも、食べずにいられなかった大叔母である。

ところで、過食拒食には、「精神的飢餓感」が有り余りすぎると、これを引き金として引いてしまう。

幼い頃に満たされた思いがなければ、そして今、満たされた思いがなければ、誰でも過食拒食になるであろうと思う。だけれど、その状態に負けたら、病 気が体に負けた証拠として出てしまうのである。「過食拒食は、眼光の鋭さで大体判別がつく」。普通の生活を送っている人で、そこまで眼光が強くなる人は居な い。つまり、死に際瀬戸際を歩いているからこそ、眼光が鋭くなるのだ。過食拒食に入ったら、自分は自分に負けていると思え。

「精神的飢餓感」は、正直に言えば何で埋めたらいいのか、具体的な策は見当たらない。強烈な過食や拒食を繰り返しても、何をしても満たされない思いが強くて、自己卑下感が強い人が多い。だけれど、満たされることを探しに行かなくては、結局はどうにもならない。そして、安易に「精神的飢餓感」を、行きずりの人とのセックスで埋めようとして、さらに傷ついている人を沢山見てきた。あれは、そもそも、男が得をする話であって、自己懲罰的に行っている人の、心の薬にはならない。

ついでに言えば、「精神的飢餓感」を感じている人こそ、霊感がどうのと言い出す人が凄く多い。つまり、満たされていなくて、自分が常に会話の中心に入り たい。それは、分かったとしよう。だけれど、常に会話の中心でいられるような人間であり続けるには、努力が必要なのだ。ヒステリーや恐怖で人は支配できな い。あまりに、ヒステリーが過ぎて、距離を置かれてしまったうちの姑などいい例である。常に、努力が必要であり、いつでも自分が場の中心であるには、若い 頃は、「たまたま」生まれ持った容姿がものを言うのかもしれない。

だけれど、年をとれば、皮をかぶったBBAである。その皮が、伸びたか、たるんだかで、ひどく真剣になるBBAである。

そこまで、達観した上で、そうです、BBAなんです。伸びているか、たるんでいるかは、大違いなんですと言い切れる女がいれば、それはそれで、「た またま」向上心があって、上昇したいBBAなのだと言える。伸びた皮は切ればいい。たるんだ皮は、一生懸命さすって、元に戻せばいい。表現の違いだけでは なく、ケアの違いに色々ある。そこまで出来てこそ、美魔女であり、そこまでいかず、「うーん、でも・・・でも・・・」って言っているのは、正直、微妙な魔 女であり、その心がBBAになるのだ。

さて、そんなたまたまで、わたしたちは生きている。たまたまあなたの環境は最悪で、あなたは精神を病んでしまった。だけれど、そこから這い上がるのは、「たまたま」も含めた自助努力である。たまたまが、訪れた瞬間に、掴んで離さなければOKである。

きっかけは、「たまたま」の象徴であり、そもそも、みんなが同じきっかけで盛り上がるとか、それがいいと言えることは何もない。それこそ、たまたま、そうしたら良かっただけで、他の人には通用しないと思うほうがいいと思う。

ちなみに、うちは、たまたま、「ブルーのカーペット」をリビングで愛用している。

たまたまである。わたしが元々コバルトブルーが好きなので、たまたまである。それによって、家中が集中力が増しているとは思えないし、勉強できる子 の育つ部屋という特集を見ても、なんとなく今一ぴんと来ない。つまり、それは、その家族にとってたまたま良かった組み合わせである。例えば、オレンジを用 いて、子供部屋をアレンジしたとしよう。恐らくうちの子供だと、その部屋には入り浸らないであろうと考えられる。

なぜかと言うと、そもそも、抜群にエネルギッシュなやつの部屋に明るい色などを取り揃えても意味がないのだ。風水的に意味する「色」や、無意識にあなたが選ぶ服の色は、性質に足りないものを補強する意 味合いがある。

反対に、リラックスしすぎて、副交感神経が緩みすぎて、疲れまくっている人の部屋に、グリーンなんてどうでもいいのだ。こういう人には、多 少赤いクッションでもスパイスでおいてやらないと、駄目なのである。

つまり、どの人もどの家族も、どの子供も、画一化された商品ではなく、わたしたちは、全く同じつくりをした生き物ではない。

人によっては、肝臓が強い人もあるだろうし、人によっては、腎臓が弱い人がいるだろう。腎臓が弱い人が、過食嘔吐なんか繰り返したら、もってのほかである。自殺行為だ。だからこそ、人間に出来る範囲は、個々に定まっていて、それが、たまたまなのである。

辛い環境や、強いストレスに負けそうなとき、何かで消化したいと考える。

だけれど、死にそうになりながら消化したって意味がない、人間はこんな画一化されていない生き物の寄席集まりで、中身の作りによってひどく性格を変 えてしまう。そんなものたちが集まって話をすれば、ややこしくなることだってあるし、誰もが、人格者からは程遠くなる。けれど、この万物の生きているもの たちの最終目標は、幸せの花を咲かせることである。

人間は、死ぬときにこそ、すべての価値が出るものである。

惜しまれて亡くなるのもひとつ、憎まれてなくなるのもひとつ、骨になっても、恨まれるのもひとつ。それも、すべて、生きた証拠である。

 

だから、たまたまであった境遇で、そんなに嘆きなさんな。そこから、幸せを掴むのは、すべて、お前さんの努力と、「たまたま」なんだよ。

 

 

その幸運は偶然ではないんです!
J.D.クランボルツ
ダイヤモンド社
2005-11-18

偶然の科学
ダンカン ワッツ
早川書房
2014-04-01


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セレンディピティ~恋人たちのニューヨーク~ [DVD]
ジョン・キューザック
ショウゲート
2006-06-23

セレンディピティとは:
ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力(WIKIPEDIA)

こんにちは。


何で隣の席のあの子には、奇跡が訪れたのに、自分には来ないんだろうと思っているそこの「輩」。

 

同じことを、数年前では考えていたよ。でも考え終わってみて、分かったんだ。

同じからだの作りじゃないからこそ、同じ条件では奇跡が同じようには起きないのである。そもそも、そこが、最低の勉強ラインとなる。

 

同じように勉強して、同じようにテストに挑んでみても、駄目なやつは駄目なもんである。出来るやつの脳みそを出来れば、洗ってみたい気分になるの は、誰もが同じである。だが、出来るやつの脳みそには、そもそも、全然関係ないものが、うまく結びつく「発想」というものがある。

ちなみに、わたしは、電話番号とか、数字に異様に強く、これは、そもそも、何度もここのブログで書いているが、発想がお下品な状態で、覚えているの である。だから、電話番号では、末尾の四桁に大体、お店をやっている人は癖のある番号を取り付けたがる。誰も何も考えなしに電話しているその電話番号は、 相手さんは苦心して、あなたの心に残るように、029(おにく)や、1188(いいパパ、いい母)等、色々つけているものである。

そこを気にしない人は、やっぱり気にしないので、単なる数字の羅列を覚えるのは厳しいと思うと思う。

よく、音階に色がついていると表現する人も居るし、わたしのように、数字の羅列に、一抹の言語性を感じる人も居る。だからこそ、面白いのであるが、 同じ学問での戦闘現場においた場合、画一的な試験問題がどれだけ良く解けるかにて、判断されていくのは、仕方がないことである。

そもそも、心理試験とは、戦争に男を駆り出す時に、手っ取り早く、数十分程度の試験で、戦場でいきなり発狂して、自分たちの背後を打ち抜く可能性の ある奴を出来る限り排除しようとして、改良が進んだものである。だから、かなり、状況的には、逼迫した背景があっての伸びなので、割と、その都度その都度 改良点がある。つまり、パターン認識が強くて、思考能力に劣るものだけをピックアップするときは、単体戦にて、ひどく手痛い敗北を得ることになる。反対 に、集団戦のときはどうか、色々組み合わせて考えるので、ピックアップに漏れたからといって、どうしようもないクズであるという理由ではないのだ。

ところが、常に女は強い男が好きであり、弱い男は嫌いなものである。

強い男が甘えてくる分には、2回位は愚痴も聞く。けれど、それ以上男が、甘えてくるのを許さないのが女性である。そもそも、これだけ強い女性であっ ても、中には弱さをこらえて強さを演じる人もいるし、弱いと思い込んでいるが、実は滅茶苦茶タフである等、女性の中の認識も様々である。

 

そんな中で、その女性だって、美しくなるときが、人によって本当に変わる。

 

それこそ、幼少時に美しさを使い果たしてしまう人もいれば、若い頃に美人になったり、おばさんになって美人になったり、なんと、BBAになってか ら、美人になる人もいる。これも、天性の要素が加わるのと、そもそも、性質なので、BBAから美人になった人は、正直自分に戸惑う人も多いし、なぜかそこ ではじけてしまう人も多い。生理があがってしまってから美しくなった人の乱れ方は、凄惨である。こっちが軽くドンびく位である。

その時期と言うものがいつ来るのかというのは、全く分からないし、子育てをしている20代の女性は、よく老け込んだと自分を評するが、意外と、40 代になって子育てがひと段落すると、老け込んだのがあっという間に、どこの女かと思うように変貌してしまう。努力努力と言うが、一心不乱に、クリームを塗 りたくって防御してた女より、すべてを捨ててから、すべてを得た人は、凄く強い。

失うことを知った女は、後は補えばいいだけなので、強いのである。

人間一番弱いのは、失うことを恐れることである。この防衛戦が、一番人間を駄目にするのではないか。常に挑戦し続ける気合がないと、人間、衰えるのは早い。

 

防衛線は、どんなところにでも張り巡らされ、女は、生まれたときから、死ぬまで戦いである。それも、男をめぐって争うならかわいいものである。通常は、おんどれのプライドを賭けて戦うので、ここが、なんともどうしようもない程、女性上司は、男性上司以上に嫌われる。

プライドが高すぎる人ほど、それを折られることに対し恐怖心を抱く。けれど、プライドは折られてナンボである。なんなら、そこの男の靴をなめましょ うか?と嫣然と微笑める人は少ない。だけれど、よく考えてみて。その鉄壁のプライド故に、折れられない心は、どこから来るんだろうか。内面から来るコンプ レックスか、外見から来るコンプレックスか、努力をしないコンプレックスか。果てさて、単なるヒステリーか。

誰にでも、大体は平等に辛い思い出はあるものである。だけれど、それを乗り越えるのは、怒涛の努力だけでは出来ない。ほんの少しの「たまたま」がな いと、努力だけでは乗り越えられないのである。そもそも、前に載せたナタリアというモデルの話があったが、ナタリアは、貧困の中野菜売りをしていてスカウ トされた。

容姿がいい女の子は、割とロシアに多い。

それが、たまたま、スカウトマンが声をかけたのは、ナタリアであった。別にナタリアである必要性などスカウトマンの心にはなく、ナタリアの心が綺麗 であろうと醜かろうと、そんなのは全く関係ない。彼らの思惑は、彼らに従順な表現者であればいいのだから、彼らにしてみたら、殆ど単なる気まぐれで拾った 猫のようなものである。

だけれど、そのたまたま拾われたことを、ナタリアは、最大限生かそうとして生きた。ただそれだけのことである。

んじゃ、ナタリアみたいに、たまたまが来ない人はどうしたらいいの?と聞かれると思う。

あなたには、本当にまだ「たまたま」が訪れていないと、自分ではっきり主張できるだけのことはあるか。本当に自分は恵まれていないと、大見得切って言えるか。

もし、それが言える人は、かわいそうな人である。得られるものに対して、何も意を感じず、得られないものにのみ、飢餓感を働かせる。永遠の餓鬼であ る。空腹で、空腹で、満たされない腹を、いつまでも、食べ物をあさって満たそうとする餓鬼である。そのあなたが、今まで生きてきたのは、そして今いる場所 は、少なくとも努力せずに得られた「たまたま」である。

 

たまたまは、努力して得るものではない。努力せずに得られるからこそ、得がたいのであって、気づきにくい。

 

ちなみに、わたしは、たまたま顔が小さい。たまたま、手も小さい。たまたま、足も小さい。顔が小さいことで、貧弱に見える服装も避けてきたし、だか らこそ、人から羨まれる点はあるが、手が小さいことで苦労し、足が小さいことで苦労し、そもそも、こういう末端が小さくなる癖を作った「心臓病」に大きく 問題がある。そして、自分の容姿を嫌って、拒食過食をしても、「たまたま」腎臓が強かった。ただそれだけのことだ。

それでも、わたしは、自分の腎臓があったこその命だと思っている。全く分からないものだけれど、ありがたさはひとしおである。

 

だけれど、あなたが感じる「精神的飢餓感」は、恐らくあなたを真正面から受け止める人がいないからだと思う。

 

真正面から受け止めてもらえる人を探すのではなく、まず、あなた自身が真正面から自分に向き合わなければ、精神的飢餓感など癒せるものか。

 

だから、そのチャンスも、「たまたま」なんだよ。

今やろうと思った人も、「たまたま」。嫌だから今度、と思った人も、「たまたま」。明日にしようと思った人も、「たまたま」。

 

奇跡はこんな感じで訪れるので、別に心が清かろうと、汚かろうと、なんだろうと、やってくる。それを上手に扱う人が、上に上がるのであって、そ れを上手に受け止めない人が、下がるんだ。奇跡の立場からしてみたら、文句を言う奴も文句を言わない奴も、別に、「たまたま」であろうよ。

 

 




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偶然の科学
ダンカン ワッツ
早川書房
2014-04-01

こんにちは。


基本的に、社会で生き抜ける人というのは、やはり、たまたま、「環境に適応した肉体を持つ人」だと思う。昔は、割と適材適所が多かったが、今や、人々が目指す場所は、「いつも同じ」。だからこそ、この競争で負ける人が、でてくる。流行の仕事は、いつもそれを目指す人がいる。

同じ場所を目指す以上、向き不向きもあるが、「忍耐心、体質、持久力」は、皆、違うので、出来不出来と言うよりは、職による向き不向きがあると今では思う。

その中で考えるのだが、人は、適職でも、色々ストレスを抱える。幾ら恵まれた仕事であろうと、様々な人生のイベントの原因で、適職が苦痛になり、精神を病む人も、体に出る人も居る。

それで、今の世の中の傾向としては、適職であろうがなかろうが、メンタルに病状が現れた人に対して、対応が厳しい。

同じストレスでも、ヘルニアに出たとか、心臓病とか、そういう人には割りと寛大だが、精神病になった人は、厳しいと思う。真面目にやりすぎて精神病になる人も、中途半端の甘ったれの精神病もある。同じくくりにして欲しくないと思う人の意図は、もっともである。

しかし、これも体の「たまたま」の作りで、このストレスはメンタルに来る人、来ない人、人にはそれぞれ、精神的な地雷があり、一見見た感じでは全く分からない。

その中で相対的にメンタルを病まない職を探していこうと考える人は多い。

無論だが、「新型うつ」のような、明日もご静養、明日もご静養、疲れすぎたので、その次に行かなくてはならない仕事は休んで、その夜からご静養という話は、誰も受け付けない。しかしながら、 「やむを得ず、出れない」、「やむを得ず出れない」、ということが重なると、現場で回すリソースが足りなくなるからこそ、職場は一番困る。そりゃ、当人としても目処が立たないことは焦りに繋がるとは思う。だが、よくよく考えると、その当人に一番向いていなかった仕事なのではないかと思う事もある。

ただ、闇雲に、みんな同じ職を求めて、同じような形で同じような競争を展開しても、負ける人は勝った人の倍以上出てくる。

負けたと思う前に、その仕事は向かないと思って欲しい。同じ分野で等しく、すべてに「1番」である必要なんかないのだし、それこそ、向き不向きはある。


人は恵まれた境遇にいながら、「もっと遥かに適した場所がある」という願望が捨てきれないのは、今の居場所で、十分に認められていないからだろうと思う。それで、もっと頑張って身体を壊すのではなく、精神を病みましたとなると、評価はもっと厳しくなるだろう。

大体、出来る奴は言う事が違う。「こう言う事をしてくれなかった」と人を責める言い方ではなく、「自分が足りない」「準備が足りなかった」「時間内にできる質が低すぎた」こういう言い方をして、内部を引き締めようとする。あなたは、どっちを同僚に持ちたいか。昼休みに、愚痴を言う同僚か。それとも、ストイックに頑張り続ける人を応援したいか。

特に、以前のような日本の仕事の質では、顧客は満足しない。その努力さえも、「神がかり」で頑張ろうとする人には、もっと神は厳しくなると思う。
 





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こんにちは。


続いていく、奇跡の仕組みだが、ここでひとつ、予め述べておきたい。

人は、努力だけでは、うまくはいかない。最後に必要となるのは、「たまたま」にあたる、「運」である。

今まで考えてきたとおり、「たまたま」は、どんな霊能者にでも治すことは不可能である。肉体を変化させる事は加持祈祷では無理である。彼らが出来る事は、隙間 をぬう事くらいしか出来ない。彼らは、諦められなくて苦しむ人に引導を渡すようなところも持ち合わせる。肉体(器質)を変化させることは出来ないので、肉体から来る、様々なコンプレックスや、様々な悩み、様々 な苦労に関して、何もできなくて当たり前である。

逆に凄く期待している人もいるが、何を考えているのか、まず、努力して最善の努力でやり尽し、後悔を生まないだけやり遂げてから、霊能者へ行くべきだろう。


偶然の才能は、人によるが、肉体に関しては、最初に持って生まれる「運」だ。

顔がかわいく生まれようと、かわいく生まれなかろうと、時代によって顔の好みは幾らでも変わるからね。強いて言えば、眉毛ひとつにとっても、好みは変わる。つい先日、安室なみえさんが、細眉だったが、いまや時代は、太眉だ。でも、バブル期の太眉ではない。

少しずつ変わってからこそ、「今が全て」だと、断言はできない。

景気の良しあしは努力で何とかなるけれど、ならない分野もある。また、そういう時代が来る事自体も、運にしか過ぎない。そして、あなたが、就職し、楽しくいられるところも、運の賜物だろう。

最善の努力をするのは当たり前であり、努力だけではなしえない、最後の砦は、運なのだろうと思う。


その、「たまたま」ってものは、これ程、人を左右するのだが、正直に言えば、この運の訪れ方は、「ランダム」である。

事故現場に巻き込まれる事ひとつでも、予め、事故が起きそうだと予測して挑む人も、どちらでも「たまたま」ふらりとして行ってしまう人もいる。これがランダムに起きる。

不幸は大きな声をしているから、そういう波動に呼ばれやすい人もいるが、基本的に、物事は、類は友を呼ぶ傾向がある。引き寄せの法則を読んでうなづく人は、そこまでのレベルでしかない。引き寄せているのではなく、引き寄せられてもらえるように、自分を律して努めるべきだろう。

つまり、今後のあなたの心がけ次第では、類友を卒業できるのだ。

 

ただ、どうやって、類友を卒業できるのか、あなたの努力と聡明な判断に任せたいと思う。理由は、個々の人体の差が大きいからである。環境を変えることでなんとかしようと思う人もいるし、変えすぎて逆に×に見られることもある。皆、言わないけれど、必死で色々試行錯誤の連続の毎日だ。

あちこちが壁の人は、そのときは苦しいだろう。だが、必ず、出口は見つかります。今は見当たらない出口に、パニックになって焦れば、余計、見失う。


冷静さを失っているあなたには、見つからないモノが必ずあるのだ。


という訳で、「たまたま」というものは、結局は、訪れ自体が、偶然の産物であること。後は、努力によって、与えられる「たまたま」がありますが、努力を活かせるたまたまもあり、不可抗力のたまたまもある。

運も実力のうちですから、謙虚にいることは当たり前だ。謙虚さは、運を呼ぶ。


驕れる者こそ久しからずや、情けは人のためならず。

 

ちなみに、努力で回避できる偶然を、察知するのは、修行積まなくても、普通の人にできることだ。

 

 


思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房
1986-04-24


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こんにちは。

ところで、幾ら適職についても、「同僚」や「上司」によっては、大変なブラック企業と化する場合がある。忙しくなって短期で雇った「派遣」に、職場を掻き回される人もいる。他には、部署移動として、人事は人を見て雇っていないし、人事配置をどう考えているのかと、心から苦痛を感じ、「訴える」法に出る人もいるだろう。

社会には、「ケミストリーマッチ」という説があり、この人が、この上司、この同僚でどう化けるのか、そこを見ている人事も割と多い。つまり、あなたが分からないあなたの未知の分野に対して、大きく石を投げかけるのも彼らだし、その石を受け止めかねて、あなたが潰れても何とも思わないし、あなたがより成長すれば、会社の為になると考える、実に厳しい話である。

同じ分野の会社でも、体育会系から弱弱しい調査系まで結構、会社ごとにカラーは違う。しかし、今の世の中、誰もが心を病まずに、長いことお勤めできる場所を探して、相手の椅子を蹴飛ばすような世の中である。その目に見えない戦いの中で、疲弊する人は多いと思うが、これもひとつの時代の流行なので、頑張っていただきたいと思う。

ちなみに、わたしは今現在47歳である。
果敢に挑戦し続けて、記憶力は相変わらず非常によく、セレンディピティを十分に使うことができる。しかし、ここまで到達する前に、身体はお釈迦寸前である。丁々発止で仕事をしてきたので、丁丁発止ではない処で、急激に精神的にストレスを感じることもある。

また、仕事本体には責任感は強いが、同僚に関して真摯に相談に乗らない面が強い。同僚の質問は、堂々巡りしていて、結局、その人たちは、「場所を変える」ことで、適職を探そうとしている一面が見受けられる。
どこへ行っても、ブラックな職はブラックである。
ただ、ひたすらに、それをブラックと思わず、千本ノックをお願いしますと言い続けて、60を越えられるのかと考えると、普通の人は難しいと思のだろう。
だからこそ、今、人は安定したお勤めを探し、無理のない仕事を探し、そういう仕事の「倍率」が上がるのだろうと思う。

年を取ると精神的にも肉体的に弱くなる。まして、ついていかない記憶力で、50を過ぎた主婦が、勤めに出ようと考えても、慣れていないからこそ採用に至るまでが難しく、投げ出してしまう人も多いと思う。
記憶力を多くすることは、ある程度訓練を受ければできる話だが、せめて減らない様にしていかないと、職場から、嫌な思いをさせられる人も多いだろう。記憶力は、メンタル面による部分が非常に強いので、記憶力を維持できるということは、メンタル面の問題をある程度自分なりに昇華できた証である。
あなたの記憶力が減るのはなんでだろうか、単なる加齢だろうか、体の不調に伴うメンタル面が響いていないか。

新しいことに挑戦するのは、若い人でさえも躊躇することだろうと思う。もう若くはないけれど、どこまでできるのか、自分で自分に挑戦する気が起きなければ、奇跡は起きないと思っている。

攻撃は最大の防御なり。
脳トレ以上に、興味を持つ何かを探さなくては、きっとあなたは、脳から老いてしまうだろう。そして、歯がゆく思って、精神が稚拙になるだろう。

人生は、達成感の連続で伸びる。あなたの器質と気質にあった仕事でも、ずっとそこにいればよかったのかと言えば、必ず、ダメになることは訪れたと思う。あなたが、そのことに弱すぎたから、そこにいられなかったのだ。そう考えて、次へ行こう。
「運」は、待ってくれないのだから。


マンガでやさしくわかるメンタルヘルス
武藤 清栄
日本能率協会マネジメントセンター
2014-03-21



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CHEMISTRY 2001-2011
CHEMISTRY
DefSTAR RECORDS
2011-03-02
普通はこっちかと(苦笑)彼らもそういう意味で名づけられたんでしたっけね。
ただひたすらに歌のうまい2人が「デュオ」になった時、どんな魔法が見られるのかと。

こんにちは。


人が集団として集まる時、個々の持ち味を最大限活かして、次の事に結びつけようとできる場で働くことを、適職という。

KOTObankより抜粋で申し訳ないが、次を考えて欲しい。

-個人が組織のアウトプットを高めるべく、他人や組織内の部署、部内、組織全体と調整を図り、調和している度具合。

-組織戦略のアウトプットは、

1)従業員のコミットメント(どの位できるか約束できること)

2)従業員、及び組織のコンピタンシー(適性、及び能力)

3)ケミストリー

この3点にかかってくる。

能力がほぼ似たような人間の中で、オーバスペックが入ってきて、調和を乱すことは、著しく組織のコンピタンシーを阻害し、互いに反発し合うようでは、企業のアウトプットには繋がらない。

 

つまり、あなたは、優秀だと自分で自分を思ったとする。過剰な自信家が集まって、形成される場は実は結構希な存在であり、その中へ入ることは大変に 難しく、過剰な自信家達は、常にアウトプットを叩き出し続けなければ、容赦なく、出せない人間に対して、退職を要求する。アメリカ外資ではよくありがちな 場面である。

 

就職を考えたり、集まる場へ出かけたり、そんな中から、はじき出される人は、基本、その集団とのケミストリーに対し、マッチングしていないと考える ことができる。よしんば、無理をして入っても、後後苦労が多いだろう。あまり、苦労をしないと、人間は少しずつ退化するので、その場が消失した際には、ど こへも行くあてさえもない。

 

スピリチュアルは、こういうケミストリーの中より、落ちてくる人を餌として好んで食する。ケミストリーマッチより、落ちてしまった人は、挫折感が強 く、自分がなぜ、その集団に受け入れられないのかを、理論で問いたいと考える。だけれど、彼らを納得させる理論はない。なにせ、ケミストリーなのだから。 科学的反応は、どういうふうに起こるかもわからないし、時代背景さえも、因子の内である。だからこそ、誰もが納得のいく挫折感の理由などないのである。

 

少なくとも、あなたが挫折感を味わうのであれば、挫折感のもととなる行動を洗い出すことが大事だと思う。それで、挫折感の行動元や、自分がなぜ、場 面にいて疎外感を感じるのかという理由は洗い出せるが、正直に他人から言われればきついものとなるし、他人は誰もその真相は語りたがらない。理由は簡単 で、結局あなたは、親切感より説明してくれた人にさえ、喰ってかかるような冷静感の欠けた人間であるからだ。

挫折感を味わっている人は、殆ど、自分の悪いところなど目に入らない。自分が正しいのだと主張し、都合の悪いことは忘れ、過去の栄光にしがみつく。頑張ったことのみ主張し、自分がどう調和を乱したかまでは、記憶にないほど余裕がない。

 

その場に応じて変わっていける人間ではない場合には、その場を去ることが、一番、組織側にも、個人側にも、心理的負担は少ない。

 

スピリチュアルや宗教やマルチは、あれはあれで、依存症が、依存したまま生きていくためのサークルなのだとしたら、なんと淋しいことか。そして、共依存者が、過剰な支配欲を満たすために、依存者を 探し出すという点では、実に巧妙にマッチしたビジネスではある。基本的に、スピリチュアルを好んで行う人は、過剰に支配欲が有り、現実で逃避できない問題 をあまた抱えているケースが多い。故に、その中で揉め事が起きたりする事は実はよくある。

適当な時だけ、友人になり、適当な時だけ、ビジネスを行い、実に曖昧だからこそ、感情の絡むこの分野は、非常に難しいと考えられる。

 

また、現在の職に合わず落伍していく人も多く、職に際し、当てこすり気味な自殺を遂げる人もいる。

 

それも、全て上記のケミストリーに際し、オーバースペックであったか、調和が取れない独裁者であったか、過小なスペックであったか、なにか問題はあ るものである。なので、割と異種な存在をわざと組み合わせることも、ケミストリーの中にはあり、その中で、ミスマッチをするケースは結構ある。期待して組 んだがやっぱダメだったとか、家庭でさえ、この親と自分のケミストリーが、ミスマッチになる傾向もあり、家庭の場合は、それにて、早期に自立する子供が多 くなるという嬉しい悲鳴がある。

だが、職に関しては、糧を稼ぐ場所でもあるので、挫折感は数え切れない。

また、お受験ネタで恐縮だが、ケミストリーに際し、ミスマッチをしないかどうかは、親を見ればわかる。親に数種類の質問を投げかければ、その親はど ういう親かわかる。故に、その学校で12年間暮らしていける家族を分けることは造作無いことである。また、このスクリーニングで、元々問題児ではないが、 その環境では問題児になりそうな人間を排除することもできる。

公立校では、その部分は全く排除できないのであるが、そもそも、公立校でいじめられたことさえも、挫折感を乗り越えられる力強さを見せなくては、結 果的に、社会に出てから、何もすることができない。子供の頃、いじめられた人がすごく多くスピリチュアルにはいる。けれど、それを乗り越え、花を咲かせる ことができる人は、そもそも、スピリチュアル界には来ない。自分を自分で慰められる人、自分が自分に納得させる解答を導き出せる人には、必要ない世界であ る。

それを、自分で納得できず、自分の落としどころを失う人が、スピリチュアルに来て、非常に困っていると思う。

 

落としどころは、全て、あなたのケミストリーミスマッチのせいである。

 

では、自分に合うところはどこなんですか?そう尋ねたがる人がいるが、そうだな、モノは慣れもあるからね。

 

死体ばかり見ていると、死体に慣れてしまうし、結果的に強い刺激であろうが、我慢してしまえば、乗り越えられることもある。ただ、強い刺激に、心が曇り、挫折感を味わうのであれば、もう、それは、コンピタンシーという適性なので、やめればよろしいだけである。

わたしも、若い頃、心臓か眼か脳かという選択肢を教授から突きつけられ、脳を希望したが、研究室を見に行って刺激の少なさに諦め(わたしの脳内は、 猿の頭蓋骨を外して、電極をさし、その刺激で研究するという研究お花畑が広がっていた)、眼は、死にゆくモノの最後の角膜に残ることが怖くなり(意外と小 心者である)、心臓では、勝手に動くんでしょ?え?とか拒否感を示したが、実際、解剖をやって、その数日後には、解剖をしている最中に、焼肉定食を食べて 戻れるだけの慣れができた。(恐らく、すごく実験が楽しかったんだと思う)

そんなわたしが、シャーレに培養するとか、そんな実験を面白くないと感じ始めるのは、しょうがないことである。わたしは、結局、究極の選択により、その中でメリットデメリットを洗い出し、メリットを享受するために、進んできたのだ。

生きていれば、メリットはいくらでもある。メリットをメリットとして享受するには、とてつもない苦労も伴う。その苦労をしないでメリットばかり欲しいという人には、少々辟易する。

 

でも、ケミストリーマッチできない場所から転落しても、それは事故じゃない。それは、単なるコンピタンシーの問題だ。

死ぬより、いい世界は、幾らでもある。

 

 








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